≪蕨宿まで8.9km≫
①【板橋宿入口】AM10:59
国道17号(白山通り)を渡りましよう。
①【板橋宿入口】AM11:01
板橋宿の入口だよ。
宇喜多秀家のお墓は今回はパス。
②【板橋宿今昔みちしるべ】AM11:03
こんな地図があると親切だね!
②【板橋宿今昔みちしるべ】 東京大学に続き、ここにも加賀藩の屋敷があったらしい。
③【庚申塔】AM11:04
右の説明からすると1661年と年代物ということ。
③【観明寺の説明】AM11:05
④【王子新道との交差点】AM11:10 王子新道といっても明治中期にできた道。
⑤【仲宿】AM11:10
「中宿」?「仲宿」どちらが正式なのかなぁ~???
⑥【弘法大師霊場の石碑】AM11:12
この碑の意味はわかりません。
隣にあった説明書を下記に書きます。
【遍 照 寺】
江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治4年廃寺となった。その後明治14年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。
境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を成功に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。
また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。
平成2年3月 板橋区教育委員会
⑦【板橋宿】AM11:14
ずっと商店街が続いています。
⑧【板橋宿本陣跡】AM11:17
ライフストアの手前の民家の前にありました。
⑨【板 橋】AM11:23 板橋の由来等
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれております。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古文書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図絵」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。 少なくとも寛政10年(1798年)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。 板橋教育委員会
⑨【板橋】AM11:21 これが板橋。以前歩いた時は夜だったので気が付きませんでした。ちょっと言いわけ。
⑨【板橋】AM11:21
距離換算できませ~ん。
⑩【上宿の碑】 交番の横にありました。写真を撮っているとお巡りさんに見られていたので、そそくさと・・・ 。
⑩【上宿】AM11:21 交番の裏にある火の見櫓??
ここでしばらく休憩です。
⑩【板橋宿の絵図】
火の見櫓にあった絵図。昔の板橋宿の様子ですね。
⑩【板橋宿絵図】 HIRO YAMAGATAの絵に似ているなぁ。YAMAGATAも参考にしたのかな・???
⑪【縁切榎】AM11:38
由来が下に書いてあるよ。
⑪【縁切榎】AM11:39
名前だけ聞くと、あまり近寄りたくないような・・・。
⑪【縁切榎】
⑫【板橋宿】AM11:42
環状7号線の下をくぐって直進です。一応板橋宿はおしまいみたいです。