≪高崎宿まで6.0km≫
江戸時代における倉賀野は、中山道の宿場であったばかりでなく、利根川を使った江戸通い物資運搬船の遡航終点河岸でもあったため、大いににぎわった。利根川最上流の河岸であったことから、西上州をはじめ中山道・三国街道を通じて信越方面へ送る物資輸送の水陸運輸の結節点としてされていた。
※ほとんどの写真は、2011年4月3日に徒歩にて取材撮影したものです。
①【皇太子殿下御降誕記念】いつの皇太子でしょうか?
昔の面影がある町並みがつづきます。
⑥【倉賀野城址】
鎌倉時代、武州児玉党(こだまとう)の流れをくむ一族が倉賀野氏を名のり、14世紀末にその子孫が倉賀野城を築城しました。
戦国期、上杉、武田、北条の勢力の狭間で、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際陥落しました。
現在、雁公園(かりがねこうえん)に城祉跡があり、住宅が間近まで建てられ、反対側は烏川への崖になっている。
⑦【倉賀野神社】 倉賀野で一番大きな神社で、第十代崇神(すじん)天皇48年、または大同2年(807)に創始と伝えられ、倉賀野宿と近隣の七ヶ郷の総鎮守です。
旧社名は飯玉宮(いいだまぐう)、大国玉神社と呼ばれる時代を経て、明治43年(1910)の神社合併により倉賀野神社となりました。
⑦【本殿】 元治(げんじ)2年(1865)上棟で、高崎市の重要文化財に指定
⑦【冠稲荷(倉賀野神社内)】五穀豊穣、商売繁盛の神、冠稲荷様です。飯盛り女達の信仰を集めていた。
⑧【安楽寺内の二十二夜堂】
⑧【安楽寺の勝軍地蔵尊】
⑧【異形板碑(いたび)】 高崎市指定史跡
室町時代の将棋の駒形をしている。主に死者を供養する塔婆と同じように使われていたという。
⑧【安楽寺の古墳】
安楽時の裏手の竹藪が古墳だと思います。
⑨【浅間山古墳】 群馬県第二の前方後円墳。
⑨【古墳の上に登ってみたが、このとうり!】