※写真は、2010年12月4日に徒歩にて取材撮影したものです。
①【加美追分】
右の道は国道17号へ合流するよ。旧中山道は左の道だよ。
①【加美追分の道標】
平成22年2月となっている。
②【踏切を渡ります。】 加美追分から200mほどで、高崎線の踏切になるよ。
③【箕田観音堂】
【箕田源氏ゆかりの地】
平安時代も九世紀後半頃になると地方の政治が乱れ始め、武蔵国では群盗がはびこり、治安が悪化してきました。
西暦919年、前の武蔵権助の任にあった源仕(任)は官物を奪って官舎を焼き払い、国府(国ごとに置かれた役所)を襲う事件を起こしました。
源仕は昇(嵯峨天皇の孫)の子で任期終了後も帰京せず箕田に土着して豪族となり、その子 充(宛)は箕田源氏の祖といわれています。 著名な説話集『今昔物語集』には、箕田に居を構えていた源充と、村岡(熊谷市)に居を構えていた平良文とが、合戦におよんだことが述べられています。
源頼光の四天王として知られている渡辺綱は充の子にあたります。
このほかにも、仕が勧請したと伝えられる八幡社、綱ゆかりの寺院など、箕田には源氏にちなむ伝承が数多く残されています。
④【氷川八幡神社・箕田碑】
箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。
箕田碑は、江戸時代宝暦9年(1759)に建てられたもので、源經基(清和源氏の祖)の徳と、箕田源氏の活躍、そしてこの地が武蔵武士の本源地であったことが記されています。
⑤【武蔵水路】PM09:42
武蔵水路は利根川から荒川への連絡水路です。
武蔵用水と呼ばれる埼玉県・東京都の
都市用水、新河岸川・隅田川の浄化用水(暫定水利権)を運んでいる。
水質が汚濁した河川を浄化するために、他の河川から浄化用水を導水したのは、武蔵水路が
日本で最初であり、現在の流況調整河川(国交省の造語)のはしりとも言えるとのこと。
⑥【箕田追分】
この追分から、北に向かって(右の道)三ツ木・川面を経て忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。左の道が旧中山道です。
⑥【箕田追分の地蔵堂】AM09:45
⑥【箕田追分の碑】AM09:45 左が旧中山道。