※ほとんどの写真は、2011年3月30日に徒歩にて取材撮影したものです。
①【源勝院】
江戸時代の岡部藩主 安部(あんべ)氏ゆかりの寺。
12代の墓があるという。
②【岡部神社】従来は聖天宮(しょうてんぐう)と称されており、明治12年に岡部神社と改称された。 岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、また江戸時代の岡部藩主安部氏の祈願所でもあった。
③【普済寺】普済寺の本堂には岡部氏の家紋である『丸に跳ね十字』が堂々と飾られている。
「初めは、なんでお寺に十字架??」と思った。
④左の写真【岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)の墓】 県指定史跡
岡部氏は武蔵七党猪俣党から出た一族で岡部八郎忠綱を祖とする。忠綱の孫が有名な六弥太忠澄であり源氏の忠実な家人であった。保元・平治の乱でも源義朝に従って出陣し数々の武功を立てている。
治承4年(1184)に源頼朝が挙兵すると、その幕下へ参陣し平家追討の合戦に従軍した。一の谷の合戦では源義経に従い平薩摩守忠度を討ち取る殊勲を挙げ、その功により忠度の知行地を恩賞として与えられた。忠澄は故郷へ凱旋したときに忠度の菩提を弔うために墓を建てているなど情に厚い武蔵武士の典型といえる武将であった。
右の写真【深谷名産の深谷ネギ】
【ホトケノザ】春の七草のホトケノザとは、別のものだという。
⑤【漬物工場】ちょっと臭うな!と思ったら。 この近辺で漬物工場を見かけるよ。
⑥【17号国道から、右の旧中山道へ入る】
⑦【島護産泰(しまもりさんたい)神社】
この地方が利根川のしばしばの氾濫により、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰していたと伝えられている。 また、当社は安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。 皇女和宮が江戸への嫁入りの際にも寄ってお参りしたということです。
⑧【左の道を直進です】
⑨【百庚申100mを右に曲がる】
⑩【百庚申(ひゃくこうしん)】
幕末の1860年に百庚申は岡の坂道への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
様々な出来事が起きていた幕末の騒然とした背景で、神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。
⑪【岡交差点】深谷パイパスを渡って直進です。
⑫【滝岡橋】小山川の橋で、本庄市との市境。江戸時代は渡し(渡船場)があった。