※ほとんどの写真は、2011年4月3日に徒歩にて取材撮影したものです。
①【17号国道の下をくぐり直進します】
【遠くに高いビル(高崎市役所)が見えてきました】
②【高崎駅入口・新町交差点】PM03:42 とうとう本日のゴール高崎です。
交差点のガストで甘い物を食べて休憩です。
さてさて、本日の宿を探さなくては・・・・。まぁ高崎だからビジネスホテルも沢山あるし。ということで高崎駅近くの「●●イン」で泊まることになり、自転車を折りたたんで部屋へチェックイン。
風呂に入り疲れをいやしたところで、「夕食はラーメンが食べたい」という思いで高崎駅西口近辺を探すが見当たらない。 1件あったが入りづらそうな店だったのでパス。 結局、コンビニの日本そばになってしまった。 これで本日三食コンビニで済ますことになった。
「まぁ明日のホテルの朝食でガッポリ食べるからいいかぁ~。」
(これが大誤算!)
早くも午後9時には就寝です。
③【あら町山車蔵】
③【あら町の諏訪神社】火災から社を守るために、土蔵つくりに工夫した珍しい神社。1599年
⑤【高崎城】古くは「赤坂」と呼ばれていたが、鎌倉初期に和田正信が「和田城」を築城。1590年北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して和田氏は滅びたが、その後、和田の地は「箕輪」の地として支配された。
当時、箕輪城主であった井伊直政は家康の命によって、1598年この和田の廃城跡に城を構え、箕輪から町家や社寺を移して城下町の基礎を築き、地名を高崎と改めて高崎城と共に城下町が誕生した。
⑥【連雀町由来碑】連雀町は行商人が背中に背負う道具の呼び名から来ているという。
⑦【大信寺】徳川家三代将軍「家光」の弟だった「駿河大納言徳川忠長」の墓がある
⑦【大信寺の入口の碑】
徳川忠長は二代将軍徳川秀忠の第三子として生まれ父母に愛され世子に擬せられたが、春日局の運動が功を奏し、兄家光が三代将軍となった。忠長は甲・駿・遠55万石の大守となり駿府城に入封した。後、寛永9年高崎城に幽閉され、翌寛永10年(1633年)12月6日、28歳で自刃した。