【上和田バス停】本停旅館の前にあるバス停から、午前7時57分発のバスで観音沢バス停へいきます。
①【旧男女倉口バス停】 AM08:08
道の脇のポケットがバス停の跡です。
②【男女倉口】AM08:10 いよいよ登頂です!
③【休憩所】上りはじめると、すぐにあります。焚き火跡があり、誰か最近寝ていた形跡が・・・・・??。
③【三十三観音】AM08:13 かつて、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石像である。
AM08:27
④【接待茶屋(和田峠施行所)】 AM08:38
江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道のたびの難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に五十両づつ下付し、文政十一年(1828)に設置された施行所の一つである。 十一月から三月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。 その後、山抜けにより流失したが嘉永五年(1852)現在地に再建され明治三年までつづけられた。
≪文化庁 長野県 和田村≫
⑤【湧水】接待茶屋前にあるよ。ツララが・・・。 ペットボトルで持って帰り、コーヒーを飲んだらバツグンだよ!
⑥AM08:44
⑦【常夜灯】AM08:45
⑧【近藤谷一郎巡査殉職の地】AM09:00
【ほっとする沢】AM09:17
【沢沿いの登山道】AM09:20
AM09:21
岩から木が生えている。すごい生命力ですね!
⑩【広原の一里塚跡】AM09:23
昔は笹と萱の生い茂る原であった。
⑪【キャンプ場】
AM09:27
⑪【キャンプ場の霧氷】AM09:27
白い花が咲いたようだよ。
⑫【和田峠遺跡群】 AM09:31
旧石器時代の石器の材料とされた黒耀石は、和田峠周辺に多く産出されている。
平成2年~4年の分布調査により、その黒耀石の露頭は十ケ所程確認された。 さらに、和田川の段丘には数多くの後期旧石器時代の遺跡群が形成されていることが明らかになった。 特にキャンプ場から一里塚、そして湿原の周辺に、たくさんの遺跡が集中している。出土した石器は黒耀石石器資料館に保管されている。
⑬【東餅屋付近のドライブイン】 AM09:34
この東餅屋では、五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間(1624~1643)より、一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府よりから与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。 幕末には大名休息のための茶屋本陣もおかれ土屋氏が勤めていた。 鉄道が開通するとともに往来も途絶え、五軒の茶屋も店をたたみ、今は(ドライブイン以外家はなく)石垣を残すのみである。
※ドライブインの先に廃墟の家屋が何軒があったよ。
何かむなしい気持ちになったね。
⑭【ちょっとした石畳】AM09:37
⑭AM09:37
道を横断するたびに表札があるので親切ですね!
⑮【こんなところにトンネルが・・・・・・】 AM09:43 国道の下をくぐるよ。
⑮左は川です。 右の歩道で行けます。
⑯AM09:44
⑲【峠までの最後の横断】AM09:56
【スキー場】AM10:05今は営業していないそうです。
スキー場に沿って登っていくよ。
⑳【和田峠(古峠)】 AM10:06 スキー場に沿って登ってくると、この風景が飛び込んできます。 とうとう来ました。 夢にまでみた和田峠です。 天空??にいるみたいです。
⑳【古峠】
中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。 頂上に、遠く御嶽山の遙拝所がある。 冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。
明治九年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新藤が開通したため、この峠はほとんど通る人はなくなり古峠の名を残すのみである。 ≪文化庁 長野県 和田村≫