≪宮ノ越宿まで7.5km≫
【坂を下る】PM 04:10
【尾張藩鷹匠役所跡】PM 04:11 鷹狩りのための雛を飼育し、各藩に供給していた所。
【飛騨街道追分】PM 04:13 奈川を経て野麦峠・飛騨高山へ通じる飛騨海道(奈川道)の追分。
【ガードをくぐる】PM 04:16
【本陣】
本陣は通らなかったが、木曽でも最大規模の本陣だったという。
小規模の宿場にしては、なぜりっぱな本陣だったかは、大名が名物の鷹の雛を品定めするために宿泊していたからではないか? と言われている。
【防火高塀跡】 PM 04:19
1695年藪原宿のほとんど全部が焼失する大火があった。その後、防火対策として宿再建の際、各戸一間につき一寸の割合で提供し合って上横水と下横水(現在の二又)の二箇所に四ッ辻の広小路を作った。 文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り石垣を築き、その上に高い土塀をつくって防火壁とした。当時、これを「高塀」と呼んでいた。
【街道にぎわい水車】PM 04:19
【宿場】PM 04:21
【お六櫛の店】 PM 04:22
お六は元々「妻籠宿」の旅籠屋の娘で、いつも頭痛になやまされていたという。 ある時「御嶽権現」のお告げを聞き「ミネバリ」の木で作った櫛を使うとその痛みもたちまち治ってしまつたという。 それ以来、妻籠宿ではお六櫛がつくられるようになり、街道名物になっていたという。 しかし、いつしか妻籠では「ミネバリ」の木が少なくなってしまい、木が豊富だつた藪原辺りから仕入れるようになった。 ところがそれ見ていた藪原の藤屋某という人物が虚無僧に変装して妻籠に潜り込み、お六櫛の製法を盗み出してきた。 そして、豊富なミネバリを使って藪原でもお六櫛が作られるようになり、いつしか妻籠名物だったお六櫛はすっかり藪原名物として定着してしまったという。
【高札場】PM 04:24
【駅へつづくガード】PM 04:27
【にぎわい水車】PM 04:30
【藪原駅】PM 04:31
PM 04:48 発の松本行き電車で、本日も塩尻の宿泊地へ向かった。
明日も、福島宿を目指してガンバルぞ! でも、右足の小指が異常に痛~い! 鳥居峠の下りで、痛めていた小指が悪化したみたいだ。